開窯創業 |
九谷焼の開窯創業についてはいろいろな説に分かれているが、一般には明歴元年(1665)頃、加賀藩の支藩である大聖寺藩主の前田利治が、家臣
後藤才次郎
に命じ肥前有田で製陶の修行をさせ、その技術を導入し、
陶工を連れて帰って加賀国江沼郡
九谷村
(現在の石川県江沼郡山中町九谷)で開窯し、田村権左衛門を指導して始めたと伝えられている。 「九谷焼」は「九谷村」の名からとったもので、また、この時期に製陶されたものを「古九谷」と呼んでいる。 その作風は、伝統的な教養を受けた士分の人達、藩内画工の士、それに才次郎が長崎から連れてきた朝、明の技術者、有田陶工等が 一団となって製陶事業に携った所以もあって、従来の民窯と異り品位風格があり豪放華麗なものであった。 この時代は世に言う「百万石美術工芸の華」が咲き誇った時代で、その中心地金沢には加賀藩前田家の豊かな財力で全国から著名な職人、 画家、学者、茶人たちが招かれ、多くの優れた美術工芸品が制作された。 九谷焼は、そのなかでも最も代表的な工芸品であった。 |
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廃絶 |
こうして華やかな展開を見せた古九谷も、元禄の前半頃、廃絶したとされているが、その原因に関して詳しく語る文献は一切 残っていない。歴史的な事実からの推測としては、延宝3年(1675)大聖寺藩の凶作による財政難、後藤才次郎などの中心人物の他界、 伊万里焼の大量生産による市場競争力の低下、江戸幕府の干渉などが考えられる。 |
復興 |
以後百十余年加賀には焼物らしいものがなかったのだが、産業奨励・失業者救済の目的で大聖寺藩が文化三年(1806)京都から
青木木米
を召致し、藩営で春日山に開窯したことが今日までの陶業継続のきっかけとなった。 金沢に来た木米は、数々の試焼を行い成果をあげた後一時帰京し、助工の 本多貞吉 を伴って来沢し新窯を築いて本格的に製陶を始めた。 しかし、文化五年正月の金沢城大火による藩財政の緊縮から民営に切り替えられ木米の待遇条件が悪くなったことや、春日山の産業 奨励の目的が作家として腕を振るおうとしていた木米の志と噛み合わなくなったことが原因で、木米は2年たらずで京都に引き上げてし まった。 その後、地元の松田平四郎が経営を継ぐ事になり、本多貞吉などによって木米の在藩中の作品を模倣して製陶が続けられた。 しかし、本多貞吉が若杉窯に移ってから廃れ、文政初年(1818)に廃窯となった。 |
発展 |
文化八年(1811)に能美郡若杉村の十村(大庄屋)林八兵衛が本多貞吉をを招き若杉窯を開く。それが五年後、藩の郡奉行の支配となり
一大製陶所に発展する。 その間藩では京都肥前からの移入を禁じて生産を保護奨励する。 花坂山の磁鉱発見と相侯って肥前調の染付け倣古九谷色絵を産出し大いに民需を応えるものがあった。花坂山の陶石は良質で今日までの九谷焼の素地として使用されるに至っている。 |
| 復興九谷諸窯 | 加賀藩や大聖寺藩の保護をうけて九谷焼は産業として発展し、藩営のみならず、多くの優れた民営窯が開窯された。 吉田屋窯(1823〜31)、 宮本窯(1832〜59)、 蓮代寺窯(1847〜65)、 松山窯(1848〜72)、 永楽窯(1865〜70) などである。また、 粟生屋源右衛門(1789〜1863)、 九谷庄三(1816〜83)、 らの優れた作家も誕生した。 |
明治以降
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再興九谷の諸窯は江戸末期時点でほとんどが民営で新時代に対応した作品造りに努力していたため、明治維新の悪影響はほとんど受け
ず、明治に入ってより活気を呈するようになった。 明治政府は国力増強のため、殖産興業・輸出振興策を打ち出し、それに呼応するように九谷焼は国内外で開催される博覧会へ作品を出品して宣伝し、輸出に力を入れたため輸出陶磁器の第一を誇るようになった。 作風は八郎手または庄三風の彩色金襴手と、細字の密画で好奇心をそそるものが多く。これが欧米人の趣向と一致した。 名工としては、金沢では内海吉造、阿部碧海、石野竜山、安達陶仙があり、能美郡では九谷庄三、松本佐平、松原新介、初代徳田八十吉、江沼では、竹内吟秋、浅井一豪などがよく知られている。 |
[参考文献] 石川県美術館発行「古九谷」、日本のやきものC 有田・九谷 嶋崎すすむ その他著 (講談社)
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石川県立美術館加賀藩前田家に代々伝わる美術工芸品古九谷コレクションを中心に石川県ゆかりの作家や国宝、重文指定の作品を展示。古九谷の名品を見たい方、江戸時代から現代までの九谷の変遷について知りたい方は、石川県立美術館へどうぞ。 連絡先 Tel 0762-31-7580 |